カテゴリー「教育問題」の記事

2015年6月21日 (日曜日)

道徳の時間の教科化

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2018年度から小、中学校の領域の一つ、道徳の時間が教科化されることになりました。教師の中にはますます道徳の授業が難しくなると受けとめられているのではないでしょうか。今は戦前のように道徳内容を注入することの反省から子ども同士の話し合い、討論のような(最近、言われるアクテブ・ラーニングといってもよいのでは)授業が行われているようです。もちろん、すべての学校、教師がそうしているとはいえないでしょうが。教科になるので、教科書が作成されますが、文科省は検定基準に読み物中心から議論する内容を挙げているようです。議論する道徳の授業は大変結構なことと考えられる一方で議論するだけで終わる授業は問題だと考える方もいるでしょう。そもそも道徳を教えるとは、どういうことなのでしょうか。あらためて考えさせられます。
たまには、教育問題も書かせていただきました(*´v゚*)ゞ

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2015年5月11日 (月曜日)

脱学校論、もう一度考えてみたいです

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 今日、大学の授業で、学生の主に中学での道徳の授業の経験を通して、その授業についてスピーチをしていただきました。その一部にこのクラスにかぎらず「何も覚えていない」、という感想を聞きます。思うに道徳の授業に限らず、小、中、高校の授業の内容を覚えていない、という現実が、一部の生徒、学生にあるのでは。もちろん、全て覚えているということはないでしょうが。私にとっても、そのような学校教育の経験があったように思います。

 学校教育とは、何なのでしょうか?すべての生徒、学生がそうだと言うわけではないですが、授業で学んだものは覚えていないという現実。それと対照的に、受験で学んだ内容は覚えている?

 イリイチの『脱学校の社会』、脱学校論(Deschooling)をもう一度じっくり読み直したいと思わされました。話が飛躍しますが、もはや学校は格差生産の役割をしているにすぎないのでしょうか?だとするなら、教員の役割とは?この歳になって、正直このようなラジカルな問いは避けたいですね、疲れます┐(´д`)┌ヤレヤレ

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2015年4月21日 (火曜日)

「小中高の教科書、デジタル化検討」

 

小中高の教科書、デジタル化検討へ 16年度中に結論
--http://www.asahi.com/articles/ASH4N5JTHH4NUTIL03H.html--
 本日の朝刊の見出しです。今後、教室の風景が変わっていくのだろう、と思わされる記事です。子ども、生徒が学校へ教科書持参ではなくタブレット持参になる日がくるのでしょうか。黒板からホワイトボード、電子黒板とすでに変わっている教室が、またOHPはなくなりプロジェクターとスクリーンに変わりつつあります。私も大学の授業で、WindowsPCでPower Point、今はiPADでKeynoteを使用することがあります。その効果は否定できませんが、今は時々必要な時にのみ使用して、おおかたは黒板使用で講義をしています。
 教科書がデジタル化されたら、その効果も大きいと考えます。ただ、義務教育の学校、小、中学校の子どもが全員携帯するためには、無償なのか、あるいは子どもの負担になるのか、気になります。現在、タブレットは数万円していますか。義務教育は、無償制が原則の一つできています。授業料無償だけではないと思います。近年、子どもの貧困、教育格差問題が指摘されてきていますが、それを考えると無償が望まれます。それにもまして、私はなんのために教科書をデジタル化するのか、それが問題だと思います。すでにいろいろ言われていることでしょうが誰もが納得できる説明が求められます。これから有識者会議で議論されていくようです。
 ところで、ヨーロッパの近代教育の端緒をコメニウスに見ることができます。彼は古代、中世の書物の素読暗唱の教育から子どもの視覚などの感覚を重視する教育を主張しました。その中で、絵図入りの教科書、『世界図絵』を著しました。そうした流れを振り返ると、今回の教科書のデジタル化の実現は、二一世紀の教育史の大きなエポックとなると言っても良いでしょう。登校する子どもたちのカバンには、教科書ではなくタブレットが。そんな風景を見てみたい気もしますが。

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2005年3月25日 (金曜日)

「生きる力」

  「学習指導要領」(戦後、教師の手引きとして作成された)の一部改正で、「生きる力」の育成ということが、否定されたわけではないのだろうが、学力低下問題に重点が移行したように見える。平成10年(小、中学校)の学習指導要領が告示されたときは、その子どもの「生きる力」の育成が、一つには大きく叫ばれた。その言葉の意味は、何だろうと考えた。その際、文科省のホームページの英語訳から”Zest for Life”ということを知った。直訳すれば「生への熱意」であろうか。当時の子どもの状況は、それが失われているという認識があったのであろう。今もそうであると思う。「希望格差社会」の中で、子どもは希望をもてる子ともてない子の格差社会が現前としているという。(下記、著書参考)

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く
山田 昌弘

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だとするなら希望をすべての子どもにもたせることのできる社会を、われわれはつくらなければならないのだが。希望をもつこともなく勉強をすることはできるのか、あるいは学習意欲がでるのであろうか。希望と絶望の2極化の間で子どもは生きていかねばならぬのか。具体性の哲学を主張するJ.デューイからすれば、このような問いは退けられる。「あれかこれか」という問題ではないと。そうであろう。重要なことは、絶望であるにもかかわらず生きることに熱意をもつ、学習する意欲をもつように、子どもを指導できないだろうか、ということであると一つ言えまいか。子どもであれ大人であれ、人として生きていくとき希望なくして生きていくことは容易ではないが、絶望にもかかわらず生きる力をもつことが必要に思うが。(「それにもかかわらずイエスという」V.E.フランクル)そしてひとのこころの有り様と同時に今の社会が問題となってくるのであろう。
 

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