カテゴリー「哲学・思想」の記事

2017年9月24日 (日曜日)

苦しみの意味

Hokkaidox 能天気な爺ではありますが、ふと苦しみの意味を考えさせられました。苦しむ意味がわかっていれば苦しみの痛みも耐えられるのでしょうか。が、苦しむ意味がわからなければ苦しみの痛みは耐えがたくなるでしょうか。いずれにしても苦しみの意味はひとそれぞれのおかれた状況によって違うのでしょう。
 また他人の苦しみをわかろうとすることは難しく思います。そこには理解しようとしてもできないもどかしさの苦しみがあります。人は苦しみを持った人の代わりに苦しむことはできるのでしょうか。言葉で慰めようとする行為は否定されることではありませんが、言葉がでてこなくてただ見守るという行為もあるでしょう。
 苦しみの意味などは無意味という考えもあるでしょう。でも苦しみの意味を見つけようとする、分かろうとすることは、より強く生きていくことができるようになると考えています。言うならば、より深く悩む人ほど人生を豊かに生きていくように思われます。キルケゴールは、絶望することができないほど絶望的なことはないというようなことを言っています。絶望することができない人は死に至る病にかかっているとも。彼らしい逆説的な言い方ではありますが。

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2016年2月23日 (火曜日)

「今こそキルケゴール」

寒いとはいえ晴れた日は陽春の光を思わさせるこの頃ですが、今日は曇り空です。
昨日の朝日の朝刊に表題の記事が文化・文芸欄に載っていました。こうした記事が少なくなっているのではと思います。
キルケゴールは、若いとき、学生時代に気になる哲学者・思想家でした。学部時代の一時期、自分の専門分野は脇において彼の著書や紹介書などを読みました。ただ『死に至る病』など私には難しすぎました。しかし、おぼろげながら、彼の思想は私を惹き付けました。「憂愁の哲学者」、絶望などの言葉で語られる彼の思想は、能天気の私には格好良く思えたのでした。しかし、だんだんそんな私にも人生には希望だけでなく絶望もあるのが現実であることが分かりました。いずれにしても自分の勉強、学部の卒論、プラトンの教育論に時間をさかねばならず、キルケゴールは脇におかれてしまいました。実存哲学のキルケゴールと観念主義のプラトンとでは結びつけようがなかったでしょう。

その後、折にふれてキルケゴールのことを気にしてきています。前にも書いたように、定年退職時に研究室の書籍を整理しましたが、キルケゴール全集(白水社版)は手元に残しました。デンマーク語の原書で読めたらと思うこともあります(この記事にありましたが、デンマーク語からの訳本が、福岡市の「創言社」という出版社から出ているようです)。絶望できない人ほど絶望的な人はいません、というような彼のフレーズは頭に入ったままです。能天気の私に対する警句です。彼についてゆっくり勉強したいと思います。彼について学ぶことによって、人生も充実してくるように思うのですが。

まったく話が違いますが、ここのところ家飲みが続いています。いわば冬眠から覚めなければという内なる声が聞こえています。これが私の実存ですか( ´,_ゝ`)ハイハイ

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2015年7月26日 (日曜日)

暑さと思考力の関係

 暑さと思考力は関係するのでしょうか?こう暑いと我々の思考力は低下するのではないか、とふと考えました。そちらの専門に通じていませんが常識上、そう考えます。今、学力とは従来の知識・技能の習得だけではなく思考力、判断力、表現力なども入っています。この暑さの中、学生は定期試験です。思考力が要求される問題に取り組む学生も大変だなと思います。暑さだけではなく余りに寒い場合も同じことが言えるでしょうか。
 「我思う故に、我在り」とデカルトは言い、人間存在の根拠を説明しました。(後で、その考えを修正していますが)「我思う cogito」とは、疑うという意味でもありますが、考える、思考に人間の人間たる根拠を求めました。その考えは、現代においては近代の思考の克服として片付けられているところですが、思考、考えることは、時代を超えて人間の条件として止まり続けると思います。「我暑さで思考停止の故、我存在せず」ではいけないのでしょう。

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2015年7月14日 (火曜日)

決断と不安

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 朝夕に富士山が見られました。梅雨明けのような青空でしたが、台風の影響ですか暑い強風が吹く一日でした。今は風がおさまっていますが、台風が気がかりです。遅めの起床後、窓の外の木がまるで踊っているようでした。それをしばらく見ていました。風の又三郎の世界を想い出させました。こんな風に日がな過ごしていたら、どうなるんでしょうか。
 ところで、私のような凡人でも、決断をしなければならぬことが少なくあります。日常生活の中での過ごし方への決断、生き方の決断などなど。決断は誰でもない私しかできません。しかし、人間的な弱さから、決断しなければならぬのに逃げようとすることもあります。安易な方に流されていくのです。ただ何のために決断するのか、明確に意識されていなければならないでしょう。決断は不安との表裏一体のようにも見えます。葛藤の中で二者択一の先にある答えを永遠に問い続けていくほかないでしょうか。あらためてキルケゴールを読んでみたいです。本棚の全集本が呼んでいるのでしょうが、未だ時間がとれないままです。

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2015年6月 7日 (日曜日)

チェアの買い換え

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20数年使っていたチェアが最近キーキー音を立て始めました。もう無理かと思い買い換えました。注文していた新しいチェアが午前中に届きました。腰をかけた途端、その掛け心地良さを知らされました。私は物を長く使う方です。物に愛着を覚えます。しかし、人間工学、技術,、素材の進歩はどこかで物を換えることも大事であると痛感させられました。

追記:さきほど書いたブログの記事、一部削除とタイトルの訂正をしました。哲学的な展開になりました部分を削除しました。じっくり考えて書くべき内容でした(´;ω;`)ウウ・・・

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2015年5月19日 (火曜日)

あれかこれかから、それにもかかわらず

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 昨日、コールバーグのモラル・ジレンマについて、二者択一の問題と書きました。しかし、問題なのはいずれの選択であれ個人の尊厳の尊重が原理であることです。説明不足でした。昔、大学院で指導を受けていた先生から、「あれか、これかではないのです。その先のそれにもかかわらずといいうあり方を考えなさい」というような指導を受けたことを思い出しました。当時、私はまだまだ実存哲学に傾いてました。実存哲学は、キルケゴールに見られるように「あれか、これか」という思考をとる立場と解釈できます。

 またこの問題に関連して、『ソフイーの選択』を思い出しました。文庫本にあり、映画になりました。これは、第2次世界大戦下、二人の子どもとともに収容所にとらわれているユダヤ人女性が収容所長のドイツ軍人のもとで秘書、家政婦のような仕事をさせられています。そのような状況下で、二人の子どものどちらか一人を助けてあげるから、選択しなさい、という話です。残酷な選択です。

 世の中の出来事、あれかこれか、二者択一で解決できないことがあります。それにもかかわらず一人一人の尊重を基本に解決の糸口を見つける努力が、異なる意見をもつ者同士の対話(コールバーグ)が求められていることを知らされます。言うならば、一人一人の良心にもとずく抵抗が求められているのでしょう。

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2015年4月12日 (日曜日)

観想「人間は旅人である」

 昨日、人生は旅、人間は旅人である、と書きました。哲学者G.マルセルは、人間の定義で人間は旅人であると。またカトリックもそのように人間を捉えています。キリスト教徒にとっては、人生は天国へ向けた旅の途上にあるということになるのでしょう。話が違いますが、松本清張の『砂の器』は映画やTVドラマで扱われてきました。故郷を追われて父子が、日本海沿いを旅するシーンがあります。何とも切なくなります。その旅は、破滅への旅でした。人間は、誰しも希望をもって先に進みゆくわけですが、天国だけではなく地獄にも至る道を進むことにもあります。現代のジャンヌ・ダルクと称されたフランスの思想家S.ヴェーユは、信じられないから信じようとする、というような逆説的な言い方をしていますが、人生は、何かを信じられないにもかかわらず信じて進む旅でもあるとも考えられます。
 そもそも希望とは、希なる望みです。それにもかかわらず希望をもって生きることは、人間にとってどんなに希だとしても望みをもたざるをえないのでしょうか。また、ひとのもつ希望を誰も奪うことはできません。一人一人の内面に根ざすものだからです。
 

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2011年9月15日 (木曜日)

省察、そして反省過剰

日も変わり、1時を過ぎた。夜のしじまをやぶって、虫の鳴き声が聞こえる。あれだけ残暑が厳しかった日中を忘れさせる涼風がときおり吹いている。来週、20日の入学式に始まり秋学期開始である。夏休みを振りかえると、ただ反省のみが。しかし、次の段階の準備期間と考えれば、無意味といえない日が過ぎたのではないか。ここのところ、わたしのまわりでは、「省察」という言葉が踊っているように思う。アメリカのショーンなるひとが、言っているReflectionのことである。単なる反省とはちがう。自分の実践、行為について考え、新たな実践を行うことである。思想としては、J.Dewynにその根源がある。話がちがうかもしれぬが、若い頃、要するに大学生の時、ある集まりで、哲学の先生が、近代哲学の問題点は、自己を反省過剰にしたというような話をしたのを思い出した。省察であれ、反省であれ、確かにあまり過ぎ去ったことを振り返ってばかりいては問題なのであろう。

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2011年9月12日 (月曜日)

人生の価値は何か

時間に流され生きてきた生活から、時間が流れない生活。物理的な時間ではなく、自分が生きていると意識することができる時間。季節の移り変わりの中で、蝉の鳴き声が少くなくなり、蝉のいのちが終わりを告げている。最近、自分の人生を想う、ある種贅沢な時間を経験している。ところで、S.ヴェーユは、人間の不幸を沈黙から説明した。もう一度、ゆっくり彼女の本を読んでみたいと思う。苦しみ耐えることは、沈黙である。その沈黙は、価値がある、と考える立場がある。自分、他者、誰もその沈黙に意味を識らないとしても、識っている、見ている存在が有るのではないかと、わたしは考えている。そうでないと生きる価値、意味はないのではないか? 蝉のように生きることは、人間にはできない。蝉は自然の中であるがままに生を終える。しかし、少なからず人間は、自然を破壊し、逆にその自然に打ちのめされて生きていく。現代文明を、根本から批判したI.イリチが生きていたら、今の状況をどのように説明したのであろうか。また、アウシュヴィッツ収容所を生きたV.フランクルの言うように、人間は権力、財力、地位、名誉等に縛られて生きていく動物でもあるか。そこに、人生の価値を見いだすということか。

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2005年3月 5日 (土曜日)

「思索の源泉としての音楽」

PHOTO007 しばらくぶりで森有正の「思索の源泉としての音楽」(レコード盤PHILIPS1977)を聴く。オルガン演奏とかれの話が収録されている。かれにとっては、まさに思索の源泉として音楽がある。『遙かなるノートルダム』(筑摩書房)のエッセイ風の哲学思想の文章に出会ったときの衝撃が思い出される。わたしは、楽器は何もできないでただ聴くだけであるが、たんに心豊かにされるだけでなく思索を促されるように思う。森の哲学思想の鍵言葉は、経験であろう。かれは、オルガン演奏という経験をとおして思索を深めていたのであろうか。
 経験という概念が、最近気になっている。今年の秋学期の授業(教育哲学)でデューイの経験を取り上げる予定である。どちらかというと西欧、とりわけドイツ哲学思想に傾いている自分の立場から、デューイ、そしてフランス思想の森から学生と学べたらと考えている。
注)写真はレコード盤(PHILIPS PH-8519)のジャケットです。

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